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放射能海洋調査―福島県でのサンプリング調査に同行して

『放射能海洋調査―福島県でのサンプリング調査に同行して』

 
みなさん、こんにちは。グリーンピースで4月からインターンをしている佐久間です。

6月16~17日にかけて福島県の港で行なった、魚介類放射能調査のためのサンプリングに同行し、漁師さんや福島にお住まいの方々のお話をお聞きして、考え、感じたことをまとめましたので、ぜひご覧下さい。

 

『感覚の麻痺なのか、それとも』

私は福島県の中通り出身で、未だ家族や友人の多くは福島に住んでおり、福島原発の事故については他人事ではありません。現在でも福島の地方紙では紙面の半分を占めるほど、震災や原発関連の記事が並んでいます。テレビの天気予報でも地方紙の紙面でも、「本日の放射線量」が降水確率のようにアナウンスされています。学校や公共機関のそばには線量計が置かれ、「只今の放射線量」を表示しています。

とはいえ地元では原発関連の話題は半ばタブーのように、各々意識はしているものの、あまり話題にのぼることはありませんでした。このような、今までの日常とは異なる現状においても、適応し、あるいは慣れていく周りの人々。

線量が0.いくつあるのが日常となってしまっている福島においては、放射線に対する感覚が麻痺し、あるいは考える事を避けてしまっているようにさえ感じられます。もちろん、特に線量が高い地域の人々は若年層を中心に避難されていますが、仕事や経済面、家庭の事情などにより、残らざるをえない状況にある方々もいます。

未だ収束の兆しが一向に見えない福島。県民が被ばくの心配をすることなく安心して住めるようになるのは、一体いつになることでしょうか。

 

『原発がもたらしたもの』

福島県いわき市の四ツ倉で合流した私は、そのまま沿岸にある「道の駅よつくら港」にて食事をしました。できたばかりの太陽光エネルギーを利用した建物で、震災の教訓を生かし飲料用貯水タンク、非常トイレ、発電機を備え、地盤のかさ上げも行なわれているそうです。見晴らしも素晴らしく、沿岸に打ち上げられた漁船の残骸や積み重ねられた大量のテトラポッドは、津波による被害の大きさと、そこから学んだ防災・減災の対策を垣間見ることが出来ました。

ただ、販売されていた海鮮系の食べ物を買うのを躊躇ってしまったり、沿岸で子どもと一緒に釣りを楽しんでいた家族に対して一抹の不安を感じてしまったのも事実です。各サンプリング間の移動でも、震災の爪痕が今なお残る箇所も多く、被害の大きさを再認識すると共に、放射能汚染による復興の遅れを肌で感じました。

そして調査の後半では、3月末に一部が避難指示解除準備区域となった富岡町も訪れました。電源三法交付金、いわゆる原発マネーによって公共施設の人件費さえも賄っているこの町には、大規模な公共施設が立ち並んでいました。

同じ福島県内の町出身である私には、それらの公共施設の立派さがあまりにも不釣合いに見え、原発の影響力の大きさをまざまざと感じました。そして、その街中には、洋風の建築で一際目立つ東京電力のPRを目的とした建物があり、人々の来館を待ちわびているかのようでした。

震災も乗り越え立派に立ち並ぶ公共施設と、崩壊し、立ち入り禁止のテープが張り巡らされた民家。そして人一人歩いていない、復興のまるで進んでいない町並み。帰宅困難地域との境界エリアで、立ち入り禁止の看板が立ち塞がる場所に到って、身に着けていた線量計のアラームが鳴り出しました。車内でさえ、線量計の数値は奥に進むにつれて跳ね上がり、瞬く間に4マイクロシーベルト/時を超えました。改めて、放射線の高さを数値でもって実感するとともに、グリーンピースの放射線アドバイザーの指導のもとに活動していると分かってはいても、目には見えない恐怖が差し迫っているようで、背筋が寒くなる思いでした。

まだまだ人が住める状況ではないことを再認識しながら、これほどの被害をもたらした原発、これほどの町の発展を生み出した原発について、思いを巡らせました。

私自身、小学校の遠足で原発に行かされたりはしたものの、子ども心に刷り込まれた、原発はすごいものだという認識がありました。事故以降、もちろんその認識は変わったものの、そういった大きな力による「原発は安全」の刷り込みも、この事故が発生した大きな要因であったように思います。

『見えないものとの戦い』

 今回の調査では、地元の漁師の方のお話を聞く機会にも恵まれました。地元の漁師さんも、もちろん不安は抱えながらの生活で、周りの人々も、子どもや若い女性を中心に、避難されている方が多いとの事でした。漁師さんから、その生涯の生業であろう仕事を奪った原発。いくら憎んでも余りあるであろうその存在にも、ただひたすらに我慢をされているその発言や行動に、仕事で永年培った我慢強さを垣間見るようでした。

ただ、原発や、東電の批判を殆どしないその背景には、おそらく親戚や知人が原発関係者なのだろうな、ということも感じさせ、問題の複雑さを再認識しました。現在は国からの要請のもと、魚の放射能調査の調査船を出し、サンプリングを行なっているそうですが、調査する魚はあくまで水産試験場の職員が持っていくものだけ、それもサンプリング用に一検体当たりさほど多くはない量を取って、後は海に捨てていました。

漁師さんと水産試験場の職員のやり取りのなかで、印象的だったものがあります。検査のために職員がサンプルを選んだ後、残った魚を囲んで職員の方が漁師さんに対し、「この魚、勿体ないから食べればいいんじゃないですか?」と言い、漁師さんは、「いや、いいよ。船の上でたらふく食べてきたから。お前らにやるから食えよ。自分たちで検査して、安全だと分かったうえで食べられるんだからいいじゃないか」と答えました。

職員さんは思わず苦笑いし、お茶を濁したものの、漁師さんは「まあ食えねえよな。」と言い放つと、職員さんはそそくさと帰っていきました。私はそのやり取りに、漁師さんが普段我慢されているものや放射能への不安、国や大きな組織への不信感や、家族や周りの人々と引き離された、現在のやりきれない思いを垣間見た気がしました。

 

『振り返りと、福島からみる日常』

福島を忘れないでください。

これは折に触れて耳にする言葉かと思いますが、かと言って福島にぜひ来て下さい、とは残念ながら私は言えません。

確かに、忘れないことはとても大切なことですし、どうか忘れないで頂きたいと思っています。けれども、メディアの操作などによって、あたかも福島第一原子力発電所事故は既に収束した、福島は復興しつつあると認識されているように僕は感じます。しかし、それこそメディアが生み出した、まさしく幻想ではないでしょうか。

私の実家は、昔ながらの兼業農家です。原発事故以降、結婚した姉の義家族に母が新米を送ろうとしたところ、「せっかくだけど、福島産は迷惑になるかもしれないから、いいよ」と、姉に止められました。

「国が検査して大丈夫だと言っているんだから大丈夫に決まってる」と、母は憤りを隠せない様子でした。

しかし、そうして断わった姉自身、福島産の美味しい米、果物、野菜といったこれまで喜ばれていたものが、迷惑になるかもしれないと、送れなくなってしまったことに、とても心を痛めていました。国が正しいと信じ込み、もしくはそう願うことで安全だと思い込んでいる、我が家の米に誇りを持つ母。原発以後、福島の捉えられ方が大きく異なってしまった事に心を痛める姉。

果たして福島の米、食べ物は安全だと大丈夫だと、本当にそう言いきれるのでしょうか。

正直なところ、自分もあまり進んで食べたいとは思えません。大変な思いをしながらも、何代にも渡り大切に作り育ててきた、我が家の米。親戚や知人にも、美味しいといつも言ってもらえていた、我が家の米。僕をここまでお腹いっぱいにしながら立派に育ててくれた、我が家の米であっても。

そんな現状を生み出してしまった原発に憤りを、そして同時に、そう簡単には解決できない問題の巨大さに、自分の無力さを痛感します。それでも今回お会いした漁師さんをはじめ、福島で懸命に生きている人々がいることを、どうか忘れないでください。
 
原発事故以降、国の対応の悪さや杜撰さ、メディアの偏った報道などにより、不信感を持つ方も多くなってきています。それを、声を出して、より良い社会にするために活動してくださっている方も、たくさんいらっしゃいます。

しかし、多くの方々は、依然として問題を深く捉えることなく、言わば他人事として日々生活されているように思います。しかし、その原発が生み出している電気は、誰もが使っているものですし、もはやそれ無しには生きられないほどでしょう。けれども、再び原発で事故が起これば、ますます人が住めないような、第二のフクシマが生まれてしまうのではないでしょうか。

かく言う私も、以前はただの傍観者でした。しばらく福島から離れていたこともあり、メディアの情報を鵜呑みにし、復興は順調に進んでいると思い込もうとしていました。しかし、福島のために、日本の未来のためにと立ち上がり、声を挙げて下さっている方々の存在を知り、自分もできることから行なっていこうという思いに駆られ、現在に至ります。

自分たちが使っている電気が、どうやって生み出されているのか、それによってどんな影響があるのか、もう一度考えてみませんか。ぜひ、実はとっても身近な問題に当事者意識を持ち、自分事として皆さんにも真剣に向き合って頂ければ幸いです。